『どうする・・』(高井 凌)

 『キノコ採りのお年寄り夫婦帰らず』(十月九日付・○○新聞)
 七日午前十時頃から、キノコ採りに行くといって前沢連峰(主峰一七九八メートル)に出かけたF市に住む無職水木豊三さん(六七)ハルさん(六二)夫妻は、七日夕方になっても帰らず、家族がF署に届け出た。このため同日八時過ぎから地元警察と消防団が地元山岳会の協力のもとに捜索に向かったが、濃い霧に拒まれて十一時過ぎに捜索を一旦打ち切った。
 翌八日は午前八時から捜索を行う。なお地元警察署では、キノコ採りシーズンの事故を最小限に食い止めようと、これから山に入る人達に十分注意するよう呼びかけている。

 この記事は社会面の下段の隅に小さく載っていた。何気なくこの記事に眼をやったとき、鷲宮武則は何かヒントを得たような気がした。いつもなら読み過ごすか、気にも留めないで次のページへと進めるのだが、小さな隅っこの記事にまで注意を払うようになったのは、やはり小説を書いてみようという気の表れかもしれない。

 しかし、彼は高校時代に新聞部で貧しい文章を書いたことはあっても、その後の日常で手紙以外に文章なるものを書いたためしがない。そこに小説を割り込ませようというのだから、それは所詮無理な話に違いないのだ。いざノートパソコンの電源を入れてワープロを立ち上げても、彼は何をどう書いたらよいのか見当さえも付かない。

 そこで、彼は、まず小説とは何モノなのかを見極めるために、ノートパソコンをそっちのけにして小説なるものを片っぱしから読みあさった。そして気に入ったものを2、3冊選び、その中の一冊を十回くらい読み返し、自分の小説作成のための教科書とすることにした。当然その間、ノートパソコンの上にはホコリが溜まり、妻の伸子からの嘲りに似た薄笑いや、中傷、脅迫にも耐えなければならない。
ようやく小説の何たるかを掴みかけた彼は、そこでいよいよ何を書くべきかという課題にさしかかっていたのである。

『キノコ採りのお年寄り夫婦帰らず』の記事を見たからといって、これは小説になるのではないか…と思ったのは、何も今回が初めてではない。『猛スピードの二輪少年、雨の日の自爆』というのもヒントと思ったし、『掛け軸を盗まれる』という記事を眼にした時だって、その背景にモヤモヤした小説の材料になるものが潜んでいるようにも思えた。『キノコ採りの…』の記事も単にそれらの一種で、ただこの記事に特に注意が向けられたとすれば、それは老夫婦と書かれずに『お年寄り夫婦』と記されているくらいなものだったかもしれない。

 その『お年寄り夫婦』がその時どのような境遇にあり、どんな苦しい体験を強いられているかまでは考えが及ばず、結局、鷲宮武則も一読者の立場でその事件を通り過ぎたのである。
しかし、やはりこの事件を本格的に書いてみようと彼に思い立たせるに至ったのは、四日後の新聞だった。もうその頃は、彼もこの記事のことなどは忘れてしまっていたといっていい。その記事とは、
『キノコ採りの老夫婦、県境越えて四日後の生還』(○○新聞・十月十二日付)

 十月七日に前沢山へキノコ採りに行ったまま帰らず、家族らに捜索願いが出されていたF市戸井町無職水木豊三さん(六七)、ハルさん(六二)夫妻は、十一日正午ごろ前沢連峰S県側の猿落沢地区で、岩の陰に身を寄せ合っているところを捜索隊員の手によって無事保護された。二人は衰弱は激しいが、かすり傷のほか外傷はなく、一週間ほどの入院の後に家族のもとへ帰れる見込みだという。二人は七日のキノコ採りの後、午後三時ごろ下山しようとして道に迷ったものらしい。九日の雨は山頂付近ではミゾレになっており、二人の安否が気づかわれていた。なお、もう少し早く救出できなかったのかという声もあり、遭難者が県境を越えた場合の対応の仕方に問題を呈した。

 この記事を眼にしたとき、鷲宮武則は何か漠然とではあるが、ついに小説の糸口を掴んだように思えたのだ。何をどのように書くかまではその時はまだ考えは及ばないのだが、この人達の遭難から発見までの四日間は、小説になると思ったのである。主人公はもちろん遭難者の老夫婦で、この人達が遭難に遭うまでの家庭での生活とか、遭難中の家族の様子など、そこには多彩な物語が影を潜めていそうで、これは絵になる--と、単にそう思ったのである。もちろん鷲宮武則には、この老夫婦やその家族、それに遭難の様子など分かろうはずがないから、そこは自分で勝手に創って書くことになるのだが。
そう思うと、彼の網膜の裏側には早くもこの遭難老夫婦が現れ、勝手に動き始めているような気がした。

 しばらく振りにノートパソコンを持ち出した夫に、
「あら、珍しいこと」と、妻の伸子は声をかけた。
 「とうとう、書く気になったのね」といって、彼の脇に立つ。
 「お前があまりにもうるさくいうからね。…小説の一つや二つ、俺にも書けるんだというところを見せておかなくっちゃね」
「うわぁ、頼もしい。やはり文学部卒の元新聞部の部長さんは違うわ。もう諦めたのかなって思ってたのよ、私」
「バカいえ。何のために少ない小遣いの中からノートパソコンを買ったんだい。今に見てろよ、どでかい小説を書いて世間のヤツらをアッといわせてやるから」
「ヤッホー!」

 妻の伸子はスポーツクラブ出身である。高校時代はソフトボール部の部長をやっていたこともあり、何かというと文化部出身の武則を馬鹿にし、体力でねじ伏せようする悪いクセがある。今回は彼のほうが、ノートパソコンを買い求める段階において、すでに何物かを書いてみようと思っていたのだから、妻の伸子に指摘されて書く気になったのではないのだが、形の上では、やはり彼女にねじ伏せられた格好となっていた。

 鷲宮武則は、大町商事という家庭用品全般を扱う、おもに地方のスーパーやデパートなどと取引のある中小企業の販売促進課で、二年前から主任をやっている。妻の伸子は結婚する以前はそこの経理部で事務をやっていた。いわば職場結婚だが、もとをただせば伸子は同じ高校で武則より五年後輩にあたる。そして、いまは小学五年と小学二年の二人の娘があり、一家四人家族である。
 「それで、何を書くの?」
といって、伸子は武則のノートパソコンを覗き込む。

 「まだ何も書いてやしないよ。これから書こうとしているんじゃないか」
武則は、ノートパソコンを立ち上げて、腕組したまま、眼を閉じた。
 テーマというか、書くべきものは決まったのだが、その構成をどのようにしたらよいものか迷っていた。
 武則は眼を開けて、新聞の切抜きを取り出し、ノートパソコンのキーボードの上に置いた。

「できれば、完成するまで秘密にしておくつもりだったけど、お前のことだから見るなといっても見るだろうし、どうせバレるだろうから最初に見せておくよ。…実は、これを書くつもりなんだ」
といって、武則はその切り抜き記事を伸子に見せる。
 「なあに、これ…」
といいながら、伸子はその記事を手に取り、眺めていたが、
「なんか、地味なものを書くのね。私はまた恋愛小説とか、赤川次郎ばりの明るいミステリー風なものでも書くのかなと思っていたわ」
といって、不満そうな眼で武則の眼を見る。

「がっかりした?」
「うん。…でも、こんな記事が本当に小説になるの?…」
「ああ、なるよ。モチーフとしては立派なもんさ。…ただ、どう書くかなんだよな。問題は」
武則は、妻を相手にしながらしゃべっている間にも、頭の中では構成をあれこれ考えていたのだが、まとまらず、大変なものを手がけてしまったと、半ば後悔に似たものさえ感じ始めている。
 小説などは、材料さえそろえば、すぐにでも書けるものだとたかをくくっていたのだったが、そんな生易しいものでないことも分かり始めてきている。

「それにしても、お爺ちゃんとお婆ちゃんの遭難物語だなんて、なんか色気がないわねぇ…」
などと、伸子はいっていたが、もう一度新聞記事に目を通すと、
「六七と六二というと、ちょうどうち(実家)の父や母と同じ年齢よ、この人達。五才違いでしょう、ほら、同じだわ。ということは、私達とも同じよね。五才違いで。…うわァ、よく生きて帰ったものね。四日間も。奇跡ね、この人達。…うちの田舎の山にもキノコがたくさん出るのよ。父もよくキノコ採りに山に入っていたけど、今はどうなのかしら?…。なんかうちの両親みたいに思えてくるわ、こんな記事を見ると」
と、ひとりでぶつぶつと何やらつぶやいている。妻の郷里は、栃木の山の中なのだ。

「まあ、何を書いてもいいけど、とりあえずは、今の仕事に支障をきたさないように頑張ってちょうだいね。あなたはやり始めると何にでも夢中になってしまって、見境がなくなるんだから」
「…文学賞はもういいのか?」
「宝くじの世界といったのは何処の誰だったかしら。当たるか当たらないか分からない宝くじを買う気は、やはり今の私にはないみたい。それよりも、今の会社で、四十歳くらいまでに課長さんにでもなってもらって、課長夫人の座を射止める方が確実性があって簡単なように思えてきたわ」
「なんだよ。この前までは、あなたには隠れた才能があるように思うの、などといって、書け書けと、騒いで人をその気にさせておいて、もう見限るのかい」
「違うのよ。考え方を変えてみたの。あなたにその方面の才能が本当にあれば、もう今頃はその道を歩いているはずでしょう。才能のある人っていうのは、他人からホイホイいわれてやるもんじゃないのよね、やっぱり。それを私ったら気が付かずに、あんな風に書け書けと煽り立ててあなたを追い詰めてしまって、悪いことしたなって思っているの」
「つまり、俺にはその才能がないっとことか。…」
あ~あ、と、武則は両腕をいっぱいに広げて背筋を伸ばす。その手を下げながら、脇に立つ伸子の尻にわざと手を触れた。

「ほら、すぐそれなんだから…」
といって、伸子はその手からするりと逃れると、
「あなたって人は、本当に何を考えているのか、私はさっぱり分からないわ。いまから小説を書こうとしている人がそれなんだから。どこまで真剣なのかが分からないわ」
伸子はそういうと、新聞の切抜きを武則の前に置くと、そのまま部屋を出て行った。
 再び武則は一人になると、新聞の切り抜き記事を手に取り、いま一度眼を通した。
 読み進めるうちに、まだ主人公の老夫婦に名前も付けてやってなかったことに気づく。それから、登場人物の一覧表も作らねばと思い立ち、その作業にとりかかった。

 名前と題名を考えるだけで三日もかかった。名前の方は比較的簡単に決まったのだが、題名を何とするかに三日も費やし、まだ決まらないでいた。題名一つとってもこんな具合ではと、先が思いやられてきた。題名が先なのか、それとも作品が出来てからそれにふさわしい題名を付けるものなのか、そんな風なことばかり考えているうちにバカバカしくなってきて、もう題名は放り出したのであった。考えてみれば、まだ作品の一行も書いていないのに、題名に頭をひねるのもおかしなことだった。題名は後回しにして、とにかく小説の第一行目をまず書き出そうと思い直したのだった。

 主人公の老夫婦は、新聞では水木豊三(六七)ハル(六二)となっているのを、武則は、水木豊三を山口一夫、ハルを春江という名前に替えた。山口という苗字や名前に特別な理由などはない。ただ頭に浮かんだままに流用したのだった。年齢は変に変えると作品自体に影響してきそうなので、そのままにすることにした。問題は家族である。新聞にはただの家族としか載ってないので、本当のことをうかがい知ることは出来ない。その家族は何名なのか、子供達は男なのか女なのか、そして息子や娘達はみんな結婚しているのか、また孫はいるのか、孫がいれば何人いるのか、そしてその年齢は、…などなど。

 ただ単に二人の老夫婦を中心に二人のことを書けばよいと思っていたのだったが、出てくるわ、出てくるわ、といった調子で、二人の身辺を整理するうちに、背景はどんどん広がっていき、挙句の果ては、親類から隣近所の老夫婦までもが顔を出し、しかもそのどれをも無視することは出来ないようで、武則はここでも頓挫した格好になった。そして大きなタメ息をついた。

 しかし、それらは単に材料であって主体ではない。そこを上手い具合に創っていくのも小説の魅力なのだといい聞かせて、武則は納得した。
 とりあえずは老夫婦の家族だけに力をいれ、そこから書いていって、その途中に必要とあらばその時々によって周囲の人物を書き込んでいけばよいと決断する。そこでその家族なのだが、次のような構成にしてみる。

 主人公の山口一夫さんには二人の娘があり、一人に婿を取らせ、一人は他家に嫁がせ、家には二人の孫がいて--といった家庭像を描いてみた。

 先ずはこの線で書いてみて、後で都合の悪い点が出てきたら、その時はその時で直せばよいと考える。それらの家庭像を、武則は歴史の教科書に出てくる家系図のようなぐあいに線で結びながら、一人ひとりの詳細を書き込んでゆく。

 長女泰子(四〇)、次女玲子(三六)、例によって名前と年齢はまったく思い付くままである。そして、長女泰子の婿は玉二郎(四五)、二人の孫は、上から道代(一七)高校三年。下は厚子(一四)中学二年。
 ここまで作成し終えて、武則は小説を創ることの楽しい部分に触れた思いがしてならない。
 ストーリーは、老夫婦の山の中での四日間を中心に書くわけだが、いきなりそこへ入って行くわけにもいかないから、家庭の日常も書くことになるわけだが、しかし、ここまで材料と準備が出来たのに、まだ最初の一行も書き出せないでいた。

 やはり、あとは文章全体の構成なのである。そして、文章の書き出し部分である。
いろんな書き出しを思い付くのだが、そこから先に進まないのは、やはりまだまだ構成が整っていないからなのだ…と思う。武則は、教科書とすべくもう何度となく読み返したR・S著の『女が泣く夜』を再び手に取り、そこから構成だけを学び取るためにもう一度読み返してみた。

 --今年の山口家のお盆の墓参りは、一夫と春江の老夫婦に、娘婿の玉二郎とその娘で次女の厚子(中学2年)の四人だけとなった。
 長女の泰子は勤めが休めないとかで、今年は来れないという。その娘で長女の、つまり一夫の孫で、同じく孫の厚子の姉で今年高校3年の道代は、来年の大学受験を控えて、それを理由に墓参りどころではないといって出てこない。その実、2階の部屋で受験勉強どころか、終日大きな音を立ててロックやポピュラー音楽にうつつを抜かしているのは家族の誰もが知っている。

 一夫は、玉二郎の汲んできたバケツの水で墓石を洗いながら、これまでの盆の墓参りは毎年家族全員で来ていたことを思い、今年になって急に二人が欠けたことに、少しばかり腹を立てていた。娘婿の玉二郎がわざわざ仕事を早引けしてまで駆けつけているのに、実の娘が、それもパートの仕事を休めないというのが、彼には腑に落ちない。‥‥

 鷲宮武則は最初の書き出しをここまで書くと、いったん筆を止めた。いや、ワープロで筆を止めたというのはおかしいかも知れない。それはともかくとして、彼は今書いたばかりの書き出しの冒頭部分をプリントアウトし、何度も読み返してみる。初めての小説の文章を手にし、彼は身の引き締まるような心地よい感覚に、背筋を伸ばした。初めてにしてはよく書けていると思う一方、こんな書き出しで果たしてよいのだろうかといった不安も感じる。登場人物にあまりにも拘っているために、八百屋の店先のように登場人物をただ並べ立てたという感じがしなくもない。

 書き出しをお盆の墓参りから書き始めたことには別に意味はなく、遭難の四日間を書くためのお膳立てをする意味から、少し遡って書かねばという考えでお盆の頃から書き始めたに過ぎない。だが彼は、何度も読み返すうちに、ここから遭難の四日間までをどうつなげればいいのかに思い悩んでしまった。お盆から遭難までは二ヶ月近くもある。やはりキノコ採りに行くところから書き出すべきだったか、と悔やまれたが、こうやって出来上がった文章を手にしてみるとそれも捨てがたく、とにかく書けるところまで書いてみようと思い直し、あとを続けることにする。

--山口家と彫り込まれた墓石の下には、一夫の両親のほかに、ニューギニアで戦死した弟の遺骨も眠っている。いや、弟の遺骨はなかった。国から届けられた白木の骨箱には弟の遺骨はひとかけらもなく、本当に弟のものかどうか怪しい少量の髪の毛と、爪と、万年筆が入っていただけだった。それらと共に一緒に届けられたわずかばかりの恩賞金を、父は名誉ある息子の戦死のための墓所を設ける資金の一部に当て、この墓を建てた。

 その墓が建立された『昭和十九年九月二十九日』という日付の下に、父郷之助の名が墓石の横に彫られている辺りを濡れ雑巾でこすりながら、山口一夫はこの墓の存在が急に身近に感じられるようになったことに、一種の戸惑いを覚えていた。今年の六月の地区健康診断で、妻の春江が胃の検査に引っかかったのだ。
 再検診の胃カメラに映った赤いただれは胃潰瘍との診断であったが、その後娘夫婦が病院へ呼ばれて、入院させて手術してはどうかと勧められてきたのだった。その話が出たとたんに、春江は自分が胃ガンではないのかと悟り、ひとりそのように決めてしまったのである。回りの者がいくら単なる胃潰瘍だからと説き伏せても、春江は聞く耳を持たず、病院に入院することも手術することも強く拒んだ。

 墓掃除が終わると、一夫は孫の厚子に持たせた生花を受け取り、花さしにさした。春江は重箱につめて持参した果物やら素麺やら団子やらを大きな蓮の葉をしいた上に並べる。一夫は厚子に命じてろうそくを準備させ、それに玉二郎が火をつける。そしてその火によって炊きつけた束になった線香をみんなで分け、それぞれがその線香を墓前にあげて手を合わせた。

 四十数年前の墓石建立の日の情景が一夫の脳裏をよぎる。父は五十二歳で母は四十九と今の一夫と春江よりも若く、父は国民服姿で立ち、母は紋付の着物の上にもんぺをはき、一夫は白い開襟シャツに兵員ズボン、足には編み上げ靴に巻き脚絆といったいでたちだった。
 本家から伯父夫婦に、そのほか親戚から四名ほど、それに隣組長や近所の人たち数名が集まり、僧侶の読経の中、母が藁半紙に包んだ弟繁二郎の遺髪と爪を父に渡すと、父が墓石の下にそれを入れたのだった。
 その集まった人達の中に二十一になったばかりの春江の姿もあったのである。
 納骨ならぬ納髪を終えると、兵役中はラッパ手だったという近所の人がラッパを持ち出し、英霊を送る曲を吹き、弟の霊を弔ってくれた。それを参列した者で兵隊経験者は挙手の敬礼を、そのほかは頭を深く垂れて聴いたのだった。

 春江は弟繁二郎と仮祝言を挙げていた婚約者で、弟が兵隊に行っている間にも、泊まることはなかったが山口家には度々訪れては何がしかの手伝いをしていたのだ。長男である一夫が嫁を取らぬうちは弟の祝言は認めないと言っていた父の言葉で、二人は結婚の機会を失ったままでいた。それでも召集令状が舞い込むと、仮祝言だけは認めてやったのだった。そのとき一夫は二度目の兵隊に行っていていない。だからその間にどのようないきさつがあり、またどのような形で仮祝言が行われたのかも分からない。一夫が兵隊から戻ってくると、今度は繁二郎が徴兵で兵隊に行って留守で、そんな中にも春江は山口の家に出たり入ったりしていたのである。

 弟の戦死が確実なものとなり、遺骨ならぬ遺髪になって帰って来ると、春江を呼び寄せた父は、その遺骨箱の前で、春江の今後の行き方の話し合いを持った。本家から伯父夫婦もそこに顔を並べており、そこで父は話し合いというよりも、一方的に春江に縁談を持ち出したのである。それらは以前から本家との間で打ち合わせてあることらしかった。躊躇する春江に、
「あんたの気持ちも分かるだがねゃ、‥‥もう繁二郎は戻って来ないんだっし‥‥」
と、父は覆いかぶさるように続けた。

 縁談の相手というのは、兄の一夫で、一夫自身、前の晩に両親から打診されてもいたのだ。
 「そいが一番いいのっしゃ。一夫は繁二郎の兄なんだし、人間だって悪いとこはない。春江さんも半分は山口の人間になっているようなもんなんだしなぁ‥‥。いまさらよそ(他家)へ行くというのも考えもんであんめいか‥‥」
 本家の伯父も横から押すようにものを言う。

 そして、その日のうちに、押し切られた形ではあったけれども、一夫と春江の縁談がまとまったのだった。
 一夫は、熱心に手を合わす春江の後姿に眼をやった。パーマ気のゆるんだ白髪の混じった薄い髪の毛はほつれて、首筋に疲れたようにたわんでいる。あの当時二十一歳だった手を合わす春江の襟足に、眼を走らせた記憶が鮮明によみがえる。
 その同じ女が、いまは六十二歳の老齢を迎え、その上にガンという死病を患って自分の横に立ち手を合わせている。自分の運命を狂わせてしまった今は亡き三人の霊に対して。‥‥春江にしてみれば、毎年のお盆の墓参りは、亡くなった一夫の両親よりも、繁二郎ひとりの慰霊の墓参りだったに違いない‥‥と一夫は思う。そう思いながら、一夫は墓の後ろの一番右端に彫られた『俗名 繁二郎 行年二十三歳』という文字を、頭の中でなぞった。

 それから脇で手を合わす春江が、もうすぐこの墓に入ることになるのではあるまいか‥‥といった不安が、現実のものとなって、一夫の胸中を波のように寄せては退いた。
 娘夫婦の入院や手術の話をまったく受け付けない春江を心配して、一夫はこっそり病院を訪ねたのだった。担当の医師の話を聞くためである。

「娘さん夫婦にもそのことで相談したわけだったんですけどもね、おじいちゃんにも知らせていいものかどうかでね。そしたら知らせないほうがいいって言いましてね。二人してがおられたら嫌だからって。‥‥アハハ、でもこんなに元気のいいおじいちゃんならいいでしょう」
 そう前置きして担当医師が話し出したところによれば、春江の胃潰瘍はやはりガンだったのだ。しかし、それはまだ初期段階に属するもので、手術すれば治る可能性があるというものだった。
「本当に、治るんでしょうか?‥‥」
「絶対とは言えません。それは切り開いてみなけりゃ分かりませんから」
と、医師は突き放すように言った。

 ここまで書いて、鷲宮武則はまた筆(?)を止めた。
 読み返してみて、ますます遭難の四日間から遠ざかってしまったようで落ち着かない。それに、よくもまあこれだけ有ること無いことをあけすけと書けるもんだとあきれかえってもみる。事実、武則自身がはじめに用意したものは、四日間の遭難事件というメインになるテーマと、登場人物、それに書き出しとしての盆の墓参りという場所設定だけなのである。いろいろと思い悩んだ末に、そこから書き始めることになったのだが、その内容は書いてみなけりゃ分からないといった状態であり、あらかじめこう書こうなどという予定もなけりゃ、あらすじめいたものもいっさいないのだ。

 武則は、ここで一息つくことにして、台所に立ち、冷蔵庫の中から冷えたビールを取り出すと栓を抜き、グラス片手にまた部屋にとって返した。
「あら、作家の先生。どう、書けてる?」
などという伸子の声が掛かったようだったが、彼には小説のことしか頭になく、わき目も振らずに部屋にとって返したのだった。

「何よう!ひとがせっかく話しかけてるのに、知らんぷりはないでしょう!私だって心配してあげてんのよ。よい小説が書けてるのかどうかって。だからうるさくしちゃいけないだろうなって掃除機もかけずに静かにしてやってるのに!」
 襖をガラッと開けて、伸子がわめくようにそれだけ言うと、ピシャリと襖を強く閉めた。
 またすぐ襖が開いて、
「もうすぐ夕食ですからね。‥‥」
と、今度は静かな口調で言う。その伸子の足元と脇下から、いつの間に学校から帰っていたのか、二人の娘が顔を出した。小学5年になる姉の瑞穂が、恐る恐る、
「パパ、本当に小説書いてんの?」と聞く。
「そうよ。さあ、我々はじゃましないで消え去りましょう」
伸子がそう言いながら、襖を閉める。襖の向こうで伸子が何を話しているのか、「わあ、すごい」という、瑞穂の声が聞こえる。

 武則はグラスに二杯のビールを立て続けにのど元に流し込んだ。それからもう一度書き上げたばかりの原稿に眼を通す。自分でも予期していなかった方向に枝分かれしているのだが、よくもこう次々と書けるものだと半ば感心もする。
 ニューギニアで戦死した弟は最初の予定にはまったく入っていなかった。書いている途中に思いつきで書き足したものなのだが、この設定はこの小説の奥行きを深くすることに作用しているようで、なかなかよい発想だったと感心する。
 それにしたがって、春江はその弟の婚約者ということになってしまい、一夫はその弟の妻となるべき人だった春江を自分の妻に迎えることになる。ニューギニアというのも、行き当たりばったりで、つい先日テレビのドラマか何かでニューギニアの戦地へ赴くシーンがあったのを、そこから拝借したものなのだ。
 モデルとした新聞の遭難記事の中には、一夫の父親の郷之助もいなければ弟の繁二郎もいない。当の新聞記事の水木豊三夫妻にこの原稿を読ませたらどんな顔をするだろう‥‥と思いながら、武則はまたもや切り抜きの新聞記事を取り出して見比べてみる。

 しかし、こうして書き上がった原稿を読んでみると、山口家という彼の創造した一つの家族というか家庭が、もうれっきとした別の生き物となって生命を得ていて、呼吸を始めているのである。

 この作品を書くに当たって、何の予定も筋書きもないと先ほど書いたが、それは嘘で、彼が、つまり鷲宮武則が、単に老夫婦の遭難事件を新聞で見つけてこれを書こうと思ったのには訳がある。

 つまり、この記事を眼にしたとき、彼はこの老夫婦は死のうとして山に入ったんじゃないだろうか‥‥という感じに取り付かれたからなのだった。もちろんそんなことは新聞のどこにも書いていないし、むしろ新聞には老齢にもかかわらず奇跡的に助かったということのほうが大きく報じられている。でもその陰に、彼はまさしく老夫婦の叫びを嗅ぎ取ったような気がした。この老夫婦は死のうとして山に入ったか、あるいは山に入ってから突然死のうと思ったかのどっちかなのだ‥‥と。

 当然、彼らは死ななかった。新聞にも報じられたとおり彼らは死なないで助かった。 だが、もし本当に死んで発見されていたなら、どんな新聞記事になったろうか‥‥といったことも、彼には興味深かった。
 『お年寄り夫婦、キノコ採りで遭難死』、いや、死んだ場合はお年寄りじゃなくてやはり老夫婦かもしれない。『老夫婦、涙のキノコ採り』、または美談調に『キノコ採り老夫婦哀れ』‥‥。

 どの新聞も『心中‥‥』とは書かないかもしれない。遺書でもあればまた別だろうが。でも彼は、この新聞記事から、紛れもなく遭難ではない心中事件を嗅ぎとった。当然あと数日発見が遅れれば彼らは死んでいたのだ。発見されたとき、彼らは運悪く(?)まだ生きていたが、どうして四日間もありながらまだ死なずに、いや死ねずにいたのか、と武則にはそこの辺りが腑に落ちないのである。もしかしたら、途中で死ぬのを諦めたとも取れるからだ。いや、死にきれなかったということもある。

 とにかくそんなわけで、鷲宮武則はその新聞記事から小説に対する想像を培ったのは事実だった。どうして死のうと思うに至ったのか。また彼らはどのような境遇にある人達なのか。また山の中での四日間をどう過ごしたのか。‥‥そういう諸々のことを、彼は自分なりに書いてみようと思ったのである。そういう意味からも、彼は主人公のどちらかを瀕死のガン病人に仕立て上げなければならなかった。

 彼はひと月余りかかってようやく主人公の老夫婦がキノコ採りに出かけるところまでこぎつけた。そこまでたどり着くのに既に十六枚の原稿をものにしている。予定では五十枚の作品に仕上げるつもりでいたから、まあ予定通りといったところかもしれない。

 その頃になると、彼は小説の書き方よりも、書く時間を得るのに苦労するようになった。会社の残業や付き合いで平日はほとんど書く時間を得ることは出来ないし、たとえ出来ても、わずかの時間を利用して書き上げることなどとても彼には出来そうにない。また月に一度は地方への出張もある。
 そういうところから、もっぱら書くのは休日になるのだが、仕事がデパートなどと関連しているせいで休日が日曜日と重ならないのが彼には幸いしていた。それが書く上でうるさい子供達に邪魔されずにすむという点でも都合がよいのだ。休日の前の日ともなると、彼は小説の続きをいかに書くかに神経が奪われて、仕事中でも浮き足立って困った。実際、仕事中のちょっとした隙間に、自分の書いている小説に関しての良いアイデアが、フッと浮かぶこともあるのだ。また、そんなふうにして待望の休日を迎え、心おきなく小説が書けるという段になって机に向かっても、ぜんぜん書けない日もある。

 鷲宮武則はこれまでひと月あまり苦労して書いた原稿を手にし、その重みにあらためてため息をつく。右も左も分からぬままに書き出したものが、いま確かな重みとなって自分の手にあるのである。よくもここまで書けたものだと彼は思う。そう思う一方、これが本当に小説といえるモノなのだろうか?‥‥といった不安も無くはない。しかしもう後ろを振り返っている時ではないのだ。小説(?)の中の登場人物達が、もう勝手に動き始めているのだから。そしてこれからは、いよいよ本題の遭難場面へと着手することになるのである。新たな緊張を覚えながら、武則はキーボードに手を置いた。

 --十月七日の天気は晴れである。前の日に用意していたキノコ採りの道具類を、長女の泰子が通勤用に使用している軽自動車に詰め込むと、一夫は妻の春江が家から出てくるのを待った。この軽自動車は、もともとは一夫の持ち物なのであるが、いつ頃からか長女の通勤用兼遊び用として自転車代わりに使用され始めている。年金生活者となってからは、普通車を金のかからない軽自動車に替え、一夫は老後の足しとして使用してきた。自動車運転はボケ防止にも役に立つということで、六十過ぎたらもう車は乗らないと言っていた一夫に、「六十過ぎてから免許取る老人だっているのよ」といって、車を押し付けたのも娘の泰子なのである。
 せっかく免許証もあることだし、それもまた一理あるということで、一夫は六十過ぎても車の運転を続けてきたのだった。軽自動車ではあまり遠出は出来ないけれども、それでも一夫は妻の春江と連れ立って、方々の温泉に行ったり、山菜採りなどにも出かけたりした。去年の秋だって、二人でキノコ採りにも行ったのだ。山を歩く速度は一夫よりむしろ春江のほうが速いくらいで、「やはり、おじいちゃんも、もう歳ね」などといっては、五歳若いのを春江は自慢していたのだ。

 春江はなかなか出てこないので、一夫は家の玄関まで迎えに行く。春江は玄関の敷板に腰を下ろして、ズック靴の紐を結んでいた。去年までとは何かが違うという思いにとらわれても、仕方のないことは承知している。第一、このキノコ採りだって、一夫が言い出したことではないのだ。春江が「キノコ採りに行きたい」「行きたい」と言うものだから、それでは連れて行ったらということになり、急きょ行くことになったのだ。誰もがその体と体力を心配したが、本人が行きたがっているのだからということで、娘夫婦も賛成した。実際、そういわせるほど、妻の体にはその後何の変哲も来たしてはおらず、ガンの宣告も病院の間違いではなかったか‥‥と思われさえした。
 しかし、病院が再検査までして診断を下したからには間違いなどあろうはずはなく、間違いなく妻の体の中では、あのガン細胞が今も増殖を繰り返しているのだ。

 あの日、病院から帰った一夫は、その後も数日は何事もなかったかのごとく過ごした。娘夫婦が胃潰瘍だと言って聞かせているものを、いまさらガンだと言うこともはばかられたし、またそう言ってしまってもいいものかどうかの判断も、彼一人には下せない。妻本人が、胃潰瘍だと言ってもそれをガンだと疑ってしまっているのは見え見えなのだから、本当のことを言うのはたやすいのだが、それだけに滅多なことは口に出せないといえなくもない。そんなことで、それを知ってしまったために、妻の春江よりも一夫のほうが眠れぬ夜を過ごした。隣で眠る小さな肩を見て、この春江がもうすぐ死んでこの世から消えてしまうのを思うと、彼はどうしようもない寂しさに取りつかれて、眠ることが出来なくなってしまうのだった。
 あいかわらず娘夫婦は、その後も入院を勧めていたが、頑として春江はその要求に応えず、漢方薬を煎じて飲めば胃潰瘍くらい治るといってきかない。手術の話はそれ以後は出さずに、もっぱら入院だけでもと言って聞かせるのだが、それすらも撥ね退けられてしまっていた。困った娘夫婦は、その時になって初めて一夫に春江の病気がガンであることを告げて相談を持ちかけてきた。その時一夫も初めてガンを知った顔つきで驚いてみせた。
 その後相談して、病院の婦長さんに来てもらい、それとなく説得などもしてもらったが、それも功を奏さないで、月日だけが流れた。
「もう、知らないからね、どうなっても」
といって、娘の泰子も匙を投げた格好にならざるをえなかった。
 それほどまでに、春江は病院を嫌い、これまでもそう通してきたし、これからもそうして行くことを決めているらしかった。
「そんなことで、いまに病気が重くなって、死んでしまったらどうするね?‥‥」
と泰子が言うと、
「どうせ死ぬなら、体を切り刻まれないで死んだほうがいいもんね」
と言い返すのだ。
 本人に関係なく、無理やり病院へ入院させてしまうことも相談に上ったが、そこまでして入院させても、はたして本人のためになるかどうかで意見が分かれ、暗礁に乗り上げたままになっているのだ。本当に苦しくなったなら、自分から入院を申し出るに違いないというのである。しかし、病気が病気だけに、その日まで待つということは、死ぬ日を待つということでもある。

 ズック靴の紐を結び終えた春江は、いつもと変わりない姿かたちで、手提げ袋を片手に玄関から出てきた。その背後に、黒い影のような物がこびり付いているように見えるのは、自分の思い過ごしか‥‥と一夫は思う。一夫は何気ないふりをして、
「今日はいい天気だし、きっと山はいいぞぉ」と空に向かって声を張り上げた。
 途中でスーパーに立ち寄り、昼食用にとのり巻き弁当を二つ買い、それからジュースとおやつ用の菓子などを買うと、午前十時半ごろ、F市を後に二十数キロほど離れた前沢山へと向かった。前沢山はこれまでも何度か行っている山で、北から東側にかけての中腹一帯はキノコ類が豊富に出ることで知られており、途中までは林道が切られているのでシーズン中は多くの人が山に入る。

 天気の良い日で、空には澄み渡った青空が広がっているのだが、ハンドルを握る一夫の気持ちは、空の明るさに反して暗い。F市を出てから一夫は隣に座る春江と一言も喋らず、ただ黙々と時速四十キロのスピードで国道を走っているのである。これまでのキノコ採りだったなら、小学校の遠足のようにああでもないこうでもないと年がいもなく話し合いながら出かけていたことを思うと、まるで別人のような山行きである。
 しかし、言葉こそ交わさないが、頭の中は色々な考えごとで埋め尽くされていた。
 追い越して行く大型トラックに吸い込まれそうになって、慌てて一夫は運転する軽自動車を道端に停めた。そして一呼吸を整える。
「飴あったかな? 飴でも貰おうかの」
一夫の声に、春江はスーパーのビニール袋を覗き込む。
「ああ、それそれ、その黒いの」
 春江はその袋を取り出して封を切り、飴を一個つまみ出すと、一夫の口に運んだ。
「お前も食べたらいいべ」という一夫の声に、春江も一個を口に頬張る。
一夫の口に含んだ飴はもう外側が溶け出し、甘い唾液の川となって胃に届いた。

 後ろを伺って、車の来ないのを確かめると、彼は再び車を走らせる。甘い液体が胃の中へ広がるのを感じながら、春江の胃の中を想像する。あの当時は初期のガンだったものが、いまは明らかに中期のガンに発展して、恐らく手術してももうダメかもしれない。一夫の頭の中で、大きく腫れたガン組織の表面を、甘い黒い液体が絡みつくようにして流れてゆく。
「いい天気で、ほんとに良かった。‥‥」
隣に座る春江が口を開いたので、一夫はハンドルを回しながら声のほうへ顔を向けた。
「こうしてあんたさんと山に来れるのも、もう今年が最後かもしんねしね。‥‥」
一夫はまじまじとそう言う春江を見つめる。
「最後って、‥‥何が? 何言ってんだか、元気だったら何回でも来れるでねの」
春江は、うふふと含み笑いをしてから、
「ありがとうござんした。‥‥自分の体は自分がいちばん分かります」
と言って、一夫に対して軽く礼をした。
「何をバガ語って‥‥」
一夫は一瞬車が止まりそうになったのをまた元に戻して、
「お前、病気のごど知っていたのが?」
と春江をみる。春江はゆっくりと首を縦に振る。
「バダだなぁ、そしたら何で入院しねがったの」
「もういいんだ。‥‥オレもう十分生きたから。‥‥あんたさんより早く逝くのがオレの夢だったんだがら」
「繁二郎のごと思ってが?‥‥」と、口に出掛かったのを、一夫は飲み込んで、押し黙ったまま前方を見つめた。フロントガラスを通した景色が、幾分色あせて感じられる。
 春江は、自分がガンだと知っていたのだ。と思うと、一夫は何か急に力が抜けていくような脱力感に襲われた。そして、そればかりか、もう十分に生きたなどとほざいている。このオレを残してそんなに早く死にたいのか‥‥。一夫の胸には、様々なものが一緒くたになって渦を巻いた。

「どう、うまく書けてる?」
といって、伸子がめずらしく部屋に入ってきたのは、原稿用紙にして三十二枚ほどになった頃だ。
 遭難一日目ということもあり、かなりの枚数をそこに投入してキノコ採りから遭難に至るまでを克明に書き、帰らぬ両親を心配する家族の様子なども書いたのだが、どういうわけか遭難の日の夜のところで筆が止まってしまっていた。武則は心中しようとして山に入ったように書きたいと思っているのだが、二人は一向に心中しようとする素振りも見せず、暗礁に乗り上げた格好になったままなのだ。
 したがってこのままで進めば、新聞記事が伝えるように普通の遭難事件にしかならず、こんなはずじゃなかったという気持ちと、早く殺さなければという気持ちの焦りで、何をどう書けばよいのか分からない状態に陥ったのだ。キノコ採りに出かけたあたりから彼は何度となく読み返してみて、どこでおかしくなってしまったのかを探ろうと四苦八苦しているのだが、どうもここだというキーポイントが見つからないのである。
 だからといって、キノコ採りに出かけたあたりから書き直すとなれば膨大な時間の損失につながるので、それも出来ないのだ。ここまで書き上げるのに要した日数は、概算で十二日、延べにして七十日余りになる。「うーん」といって、彼は何度も頭をかきむしる。そんなところに、
「どう、うまく書けてる?」
といって、妻の伸子が入ってきたのだ。

 彼はポカンとした顔つきで伸子の方に顔を向ける。
「あら、まあ、すっかり作家の顔になっちゃって」
伸子は、そういいながらも、恐る恐る彼の方へ近づいてくる。
「これでも、私、ずいぶんとあなたに気を使ってあげてるのよ。分かるでしょう。瑞穂や典子にも邪魔しないようにきつく言ってあるし、私だってなるべくあなたの邪魔にならないようにって、よほどのこと以外は顔を出さないできたのよ。電気釜のコードだって私一人で直したんだから」
 そういって彼の脇に立つと、
「はい。これ」
 といって、背中の後ろに隠し持っていたドリンク栄養剤を突き出す。武則が思わずそれを受け止めてしげしげと見る。ラベルにはテレビのコマーシャルでお目にかかったことのある『○×・エンペラー液』。定価一五〇〇円という文字が眼に入る。

「こんなに高いの、いったいどうしたっていうの?」
「いいから、いいから、疲れているだろうなって思って買ってきてあげたのよ、私のポケットマネーで。だから、これを飲んで元気出してちょうだい。どお、優しい奥様でしょう、私って。‥‥ところで、うまく行ってるの? そちらの方は」
その質問に、武則は片目をつむって応える。
「うわー、これなんだ。ちょっと見せてもらってもいい‥‥」
伸子は武則の了解も得ぬうちにプリントアウトされた原稿の束を手に取る。
「へぇー、きれいに印字されるものね。いい時代になったものだわ。‥‥これなら字の下手なあなたでも書けるものね」
 伸子は肝心の作品よりも、パソコンやワープロの機能の方にばかり感心している。たかが妻とはいっても、彼にとっては苦労して書いた作品が初めて人目にさらされる訳であり、内心落ち着かない。とくに歯に衣を着せない物言いの伸子にあっては、何をどう言われるか分かったもんじゃない。しかしもうそういう箇所へ差し掛かっていると彼は思う。批評も批判も甘んじて受け入れようという心持である。ここまで初めての小説に取り組んで一人で七転八倒しながら書いてきたけれども、もう限界のようにも感じ始めていた。

 ここ十日ばかり(実数に直すと二日だが)筆が止まったままになっているのが、そのいい証拠なのだと思う。はたしてこれまで書いてきたものが小説と呼べるに値するものなのか、もしそうならこの暗礁に乗り上げた事態をどう回避すればよいのか‥‥彼には皆目分からない。

 彼はエンペラー液をチューチューストローで音を立てて飲みながら、ようやく作品に眼を通したと思われる伸子に対して、脇から自分の書いたものの弁解にまわる。
「いや、まだ完成してないんだ。現在3分の2といったところかな。‥‥いやいや、まいったよもう。思うように書けなくてさ。やはり小説書くのって難しいね‥‥アハハ」
伸子はそんな武則の言葉が耳にも入らぬように熱心に読みふけっている。
「やはり、ガンに冒されているっていう筋立てが無理だったかな。あまりにもありふれているもんね、そういうのって」
伸子には、この作品の主人公夫妻が心中するってことはまだ分かっていない。口に出して教えてもいないし、まだそこまで書いてもいないからだ。心中させようとしているのは武則一人であって、新聞記事からはそんな感じは受け取れない。

「娘夫婦に浮気でもさせればよかったのかな、ドカーンと。婿に外に女がいてさ、その女に子供が出来て、バレて家を追い出されたとか。またその反対に娘にパート先で知り合った男がいて、その男と駆け落ちしちゃったとか。でなけりゃ、孫の受験を控えた娘が受験前に身ごもったとか」
「ちょっと黙っててよ。いま一生懸命に読んでいるんだから」
伸子の意外なほどの真剣な眼差しに、武則は黙り込む。武則は、「ええい、もうどうにでもなれ」といった心境だ。

 四十分ほどして、伸子が読み終えると、
「フーン、まあなんとか小説の体裁は保っているっていうところね。でもまあ、初めてにしてはよく書けてるんじゃないの。芥川賞はまだ無理だとしても、もう二、三年修行を積めば、かなりいいところにいくんじゃない。‥‥なぁんちゃって。何よこれ。老夫婦の年齢差が私たちと同じはまだ許せるにしても、娘二人という構成やその娘たちの年齢は、うちの瑞穂や典子と同じっていうのはどういうこと? うちに男の跡取りがいないっていうことの当てこすりなんでしょう。あなたっていう人は本当に陰険なんだから」
「えっ? 本当にそんなふうになってる? 知らなかったなぁ、そんなふうになっていたなんて。もしそうなら偶然だよ」
「まあ、それはいいけどさ」
といって、伸子はもう一度原稿に眼を落とす。
「正直言って、驚いたわ、あなたにこれほどまで書けるなんて。私この間新聞記事を見せてもらってから、はたしてどんなふうにかけるものか楽しみにしてたのよ。私なりに筋書きを頭に描いてもみたし、いろんなパターンも想い描いてみたわ。でも、それよりもずっとこっちの方がいい。こういう筋書きは考えもしなかったもの。この人達、死ぬんでしょう?」
「えっ?‥‥」
 思わぬ伸子の声に、武則も素っ頓狂な声を上げる。
「分かる?」
「分かるわよ。ここまできて死ななかったらおかしいもの」
「いや、死にはしないんだ。死のうとはするけどね。失敗するんだよ」
「何言ってるのよ。ここまできて死ななきゃ、読者が納得しないわよ」
「それじゃ、新聞記事と違ってくるじゃないか。彼らは助かったんだよ。ほら、あの新聞記事を見ただろう、奇跡的に助けられたってやつ。助かったから面白いんだ。死んだんじゃ、そのへんにごまんとある小説や映画と同じじゃないか」
「新聞記事がどうしたっていうのよ。そんなものもうどうだっていいじゃないの。これはこれでもうれっきとした小説になっているのよ。ここはもうこの老夫婦は死ぬしかないわよ。それが一番自然な流れというものだわ」
「いや、心中事件であることには間違いないんだがね、とにかく死にはしないんだよ」

 失意のどん底からすくい上げてくれたのは、やはり妻の伸子だといってもよいだろう。初めての小説の危機が、彼女の熱情の言葉によって救われたのだから。しかし彼は、彼女の思惑に背いて、やはりあの老夫婦を殺すことはしなかった。当初の予定通り、新聞記事の姿に戻して、完成へと漕ぎつくことを目指したのである。

--最初の夜は、寒さと恐怖心を最小限にするために、一夫は枯れ枝を集めて夜通し大きな岩陰に焚き火を焚いて暖をとった。杉葉を敷いて春江のために寝床を造ってやり、春江をそこに寝かせ、自分は寝ずに焚き火を絶やさないように朝まで起きているつもりだった。焚き火に薪をくべながら、一夫は道に迷ったことを春江に告げたときの春江の顔を何度も思い返した。春江は別に驚きも慌てるふうもなく、静かに笑みを浮かべたように見えた。それが彼が仕組んだのを見透かすようでもあり、本当に道に迷った一夫を慌てさせた。
「これは、本当だがや。本当に道に迷ってしもうたんだからねゃ」
一夫は真剣にそういっても、春江はそれにただうなずいてばかりいた。

 この道に迷ったということが、一夫には「ここで死ね!」という神の思し召しにも思え、次第に暗くなっていく中に、悪あがきせず大自然に抱かれたままこの地に二人で死ぬのもまた悪くないような気持ちに襲われた。
 焚き火をしながら、片側に眠る老妻の顔を見て、一夫は何度も二人で死ぬことを考えてみた。兵隊には行っても人殺しだけは免れてきた一夫だったが、どのようにしたら人間が簡単に死ぬかということぐらい分かりきっている。また生きようと思えば、重傷の者を除いて水だけで十日間ほどは生き延びられることもまた知っている。健康な者ならまだしも、この先数年、いや数ヶ月もつかどうか分からない春江の体のことを思うと、それに春江亡き後の残された自分の姿を思うと、ここで死ぬこともさして罪深いことのようには思われない。
 そしてこれは偶然に道に迷ったのではなく、自分の心の中に知らず知らずのうちに死に場所を求める意識が働いていて、こういう結果になったのだと思い知らされたような気持ちもどこかにあるのだ。

 首のタオルを両手に広げて、春江の首に巻きつける妄想を何度となく繰り返す。その後自分は、高く深い切り立った沢を見つけて、そこから飛び降りればコトが済むのだ。
 死へ向かうことは決行であり、決行は瞬時に行われるから、死ぬことを怖いとは思わない。ただ、そう思い切るまでが怖いのだ。そして、その決断を下すまでが充分に時間を食う。
 燃える焚き火の陰に、軍服姿の弟繁二郎の顔が浮かぶ。そして、「兄さん、春江を殺さんでくれよ」と訴える。
新しい薪を火の中に投じると、火の粉がはじけて、木立の空に吸い込まれて消えた。いつしか彼も眠りの中に落ちていった。

「ねぇねぇ、その後どうなった? あの二人。やはり死んだんでしょ?」
「いや、まだ生きてるよ」
「なによそれ。やっぱり殺さないんだね。最後は美しく死なせたほうがいいと思うんだけどなぁ」
「他人事だと思って、そう簡単にいうなよ。人間の命ってものはね、地球よりも重たいんだよ。‥‥現に、当人たちはまだ生きているんだし」
「それもそうだけど。ああ、あれから私も考えたんだけど、あの主人公があなたと私だったらって、そしたらあなたどうする? 私がガンに冒されていて、入院もせず、死ぬのを待っているようにしていたら」
全く、話題がいろんなところに飛火するのが早い女だと思いながら、武則は伸子の顔を見る。
「ねぇ、本当に、私がああだったらどうする?‥‥私があの春江さんの立場だとしたら」
 武則は、まだ若くてジーンズからはみ出るばかりの肉体を持つ伸江に、春江の年老いた影を重ねてみることはどうやっても想像が出来ない。
「私がああいう立場だったらね、ああいう山の奥で愛する夫に絞め殺される方を選ぶな。‥‥病院のベッドの中で管に巻かれて死ぬよりは、ずっといいもの。ねぇ、私がああいうふうになったら、殺してくれてもいいからね」
「おい、待ってくれよ。オレを殺人犯にする気かい。お前は話が飛躍しすぎるんだよ。そんなことを言うなら、その逆のことだって有りえるんだからね。オレが末期のガン患者で、自分の死ぬのを待っているとしたら、‥‥」
「分かったわ。あなたの小説は片方だけがガン患者だからいけないのよ。あの検診で二人とも引っかかってしまえばよかったんだわ。今から書き直してそうしなさいよ。それだと二人して山の中で死ねるんじゃない。ねぇ、そうしなさいよ」
「よくもまあ人殺しの好きな女だね、お前って、これじゃオレが本当にガンになっても、ガンより先にお前に絞め殺されそうで危なくって教えられやしないわ」
「ご心配なく。ガンになった場合は、本人よりも先に家族の方へ早く知らせがありますから。それはあなたの小説にもあったじゃない」
「あっ、そうだった。怖っ‥‥。でもね、いまはその殺すか殺さないかの問題はもうケリがついてるんだよ。お願いだからもうその件については言わないでくれよ。当面の問題はだね、山頂でミゾレの降った日の夜なんだ。二日か三日目の夜だったよな、あれは。外じゃ濡れるだろう。だから何処か炭焼き小屋みたいなのを見つけてさ、そこで二人は過ごしたんだよ。そしてそこで、二人がセックスをしたかどうかが問題なんだ。‥‥」
 今度は、伸子の方がポカンとした顔で武則を見つめる。

「セックスって? 春江さんはガンに冒されてるんでしょう。それに二人ともいい歳なんだし、そんなことってある?」
「でも、一夫さんはもうマッチがないんだよ。だから火は起こせないんだ。普通だったらもうあの二人はあの日に凍死しててもおかしくないんだ。それを生き延びたんだから、絶対に何かしたんだよ」
「それにしても、だからセックスしたとは限らないじゃない。それに二、三日は食事もしていないんだし、そんな体力ってあるかしら」
「でもその頃は二人とも生きる喜びに目覚め、生きようとして励ましあっている頃だし、でなけりゃ凍え死んでいるんだから、やはり二人は何がしかの方法は取ったんだね」
「それにしても、何もセックスだなんて、ガン患者に」
「いくらガンに冒されてても、セックスぐらいは出来ると思うよ。まだ末期じゃないんだし、キノコ採りに出かけられるくらいなんだから。それに今生の名残ってこともあるじゃない、この二人の場合は‥‥」
「そういうあなたの発想の方がずっと飛躍的だわよ。これじゃ私の方こそガンとかの重い病気になったら、あなたと何処へも出歩けないわ、怖くって」
「だから、そこんとこで悩んでるっていっただろう。まだそう書くと決めたわけじゃないんだし、話だよ、話」
「いくら何でも、相手はガンに冒されているのよ。病人よ。普通でさえ男の人のほうがその気になるかしらね。それもこの歳で」
「歳はこのさい関係ないんだ」
「‥‥あなたならああいう場合でもそういうことするんでしょうけど、でもあの人達にはそんな考えはいい迷惑よ。ああ、何でここでセックスが出てくるのよ。もうあなたには付き合いきれないわ。せっかくいい小説が出来ると思っていると、いつも最後にはぶち壊しなんだもの」

(完)

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